底抜け脱線人生の歩き方

夫の突然の交通事故死。限定承認、会社の清算、失業、未払い賃金立替闘争、父の死、婿ウツ、etc. 底抜け脱線人生の顛末。

お話。

祭壇にはヤツが愛した書籍の一部を飾りました。哲学・思想系、キリスト教関係から、小説、アート、漫画に至るまで。

家が歪んで窓が開かなくなるほどの蔵書がありましたから、そこから選ぶのも大変。

真ん中には骨になっちまったヤツを置き、

後ろの壁には、ヤツの誕生から最近までの写真、そして密葬のときの写真をスライドショーで映し出しました。

 

礼拝の一部始終はU-streamで中継されました。Y150でお世話になった市民放送局の皆さんが協力して下さいました。

 

お話は、まずヤツの生い立ちと生涯について、そして、ヤツが目指したものについて話しました。

100%ビジネスマンで100%牧師だったヤツ。

一緒に仕事をしていた人々には牧師としてのヤツが、信徒さんたちには仕事をしていたヤツの姿が分かりません。

それを説明し、ヤツを一つにまとめること。これからはヤツを表現できるのは私しかいなくなってしまった。人がいなくなる、ってそういうことなんですね。誰かがその人を語るしか存在がなくなるわけです。

遠くから遥々来てくださった愛する兄弟(キリスト教徒は信徒仲間を兄弟姉妹と呼び合います)

私たちが教会の信徒数の発展を求めて盛んに活動していた頃、共に働いていた信徒仲間たち(その思想は今の教会を建てる時に見事に崩れ去って行きましたが)、ヤツと万博で同労した代理店やスタッフ、出展者たち。

 

ひとつ、思いました。喪主の強みについて。

 

悲しみにくれている人に、私のハグは力がある。かける言葉は癒しになる。へー、そうなんだ。

喪主って、便利だなぁ、などと不謹慎な優越感を感じてしまいました。

 

だから、でしょうか?

とにかく私が笑うこと。私が笑えばみんなが笑える!ということ。

 

これだなぁ、と思いました。

 

私が元気でないと、みんなが元気になれない。悲しみを背負うことで、人を励ますことができる、というのは私にとってむしろ良いことなのではないか、と思うのです。

自分の生き方がひとつ、定まったように思いました。

 

人呼んで、「明るすぎる未亡人」…!?