底抜け脱線人生の歩き方

夫の突然の交通事故死。限定承認、会社の清算、失業、未払い賃金立替闘争、父の死、婿ウツ、etc. 底抜け脱線人生の顛末。

通夜。いや前夜式。

キリスト教では通夜のことを「前夜式」と言います。

ヤツが亡くなってから葬式をどうしようかと迷いました。I牧師に頼もうかとも思いました。でも、形のない我が教会です。戸惑わせるのがオチです。

 

しゃあない。やるっきゃない。そう決めました。

 

実は、あの夜、ひとつの言葉が頭に飛び込んできました。

 

先のことを考えるな。

昔の事どもを思い出すな。

見よ。私は新しい事をする。

今、もうそれが起ころうとしている。 イザヤ書43:18-19

 

新しい事。

それは、いったいどういうことなのでしょう?

どん底を這いつくばって、やっと折角頭を持ち上げて動き始めたヤツをいきなり取り上げて、どんな新しい事をせよ、と神は言うのでしょう?

 

そして、この前夜式を行う日の朝になってふと湧き上がってきたこと。

それは、「タコツボからでるタコ」です。

これは亡くなる直前にヤツが言い出したことで、タコツボ化した世界から自由になろう、ということでした。

私たちは私たちが気づかないうちに自分たちのタコツボを作って、引きこもってしまう。特に日本人はタコツボ化しやすい民族。ちょっと顔を上げてみてみると、学校や職場やサークル、コミュニティ、ボランティアグループ、宗教もそうですね。同じ立場や同じ思想の人々などが、派閥や仲良しグループを作ってその外にいる人々を差別している。多様であることを許さず、仲間に常に同意を求める傾向がありますよね。やそこから出て、新しい世界でフラットにつながり合わなければならない、ということを事あるごとに熱心に伝えようとしていました。

 

私は自分は他より先に知っていて、よく分かっている、と思い込んでいました。まさか、自分がタコツボ化などしているはずがない、と。

実は私の場合、ヤツと言うタコツボに入ってぬくぬくしていました。何をするにもヤツのフィルターを通して一旦評価してもらって外に出していましたし、「従順」という美徳は実は自分に責任を持たない、楽な生き方を選ぶ誘惑でもあったのです。やはり、奴に守られているのは居心地が良かった。そうやって安心していたところ、無情にも神さまは私のタコツボを割ってしまいました。そう、タコツボ化して人を差別していたのは私だったのです。

 

その考えは皆さんとの「故人との思い出の分ち合い」を伺っているときに確信に変わりました。

みんなヤツというタコツボの中でぬくぬくしていたのです。教会の中で、仕事の中で、家族の中でヤツに甘え、必要以上に依存していたのですね。

その最たるものが、この私。

でも、もうヤツはいない。みんな無理矢理でも自分の力で出て行かなければなりません。

 

タコツボ割られたタコたちはたこたこと大海原に出て行って、お互いにつながり合いながら新しい事を始めるのです。

それで、前夜式のメッセージは「タコツボを割られたタコたちが新しいことを始める」という話をしました。

 

見よ。私は新しい事を始める。今、もうそれが起ころうとしている。