底抜け脱線人生の歩き方

夫の突然の交通事故死。限定承認、会社の清算、失業、未払い賃金立替闘争、父の死、婿ウツ、etc. 底抜け脱線人生の顛末。

生まれ変わりの子猫。

それでも、毎日職場に通うドラちゃんを見ていて思うのです。職場が楽しい、とは言いますがそれでも仕事というのは学校で学ぶのとは大違いで、嫌なこともたくさんあるはずなのです。学校のときはちょっと嫌なことがあるとすぐに行かなくなってしまったアイツが、不条理な仕事を押し付けられても文句いいながら、(確かにブーブー文句は言っている)出かけて行くのです。

 

大人になったのか、やっぱ、母親に心配かけまい、と頑張ってくれているのか。

 

音信不通気味だったムスメも、折々メールをくれるようになりました。話の半分は婿ウツの愚痴だったりするのですが。

 

あれは9月に入ったばかりの頃、「猫、拾ったー」というメールが。

どうやら住まいの隣の公園で雨に濡れたまま置き去りにされている子猫を保護したようでした。

口の中を怪我して、虫の息だったその子は「2、3日持つまい」と医者には言われたそうです。でも、懸命に生き抜いた。真っ黒なその子は当時生後二週間ぐらいだと言う。

 

逆算するとちょうど、ヤツが亡くなったころ生まれた子猫らしい。

 

私たちはキリスト教思想を背景に家庭を営んできましたから、「生まれ変わり」という考えはもちあわせておりません。

でも、この日付のトリックにすっかりはまってしまいました。

 

神様が私たちの心の癒しのために、新しい命を贈って下さった、そう考えることにしました。

 

この子は、三日と持たない、と宣告されたにも関わらず、見事にながらえて鬱なムコさんの大事な存在となりました。相思相愛です。(笑)(今でも、ムコさん以外の人にはなつかないのです)
生まれ変わりが黒い子猫(女の子!)とは。オットさんも可愛らしくなったもんだ。

そして、あろうことかお互い毛嫌いしていた舅と婿がニャンニャンニャン…?(笑)



子どもたち。

ヤツが突然いなくなって、さぞかし…、のはずですが、

不幸中の幸いと言うか、子どもたちは既に成人しそれぞれ学業も終え、(勉強が嫌いだったらしい)といっても、助けになるほどしっかりもせず、というところ。

 

おねーちゃんは既におかーさん。19の年で突然いなくなり専門学校の先輩と同棲を始め、二年後にはできちゃった婚してしまいました。おとーさんがどれほど傷ついたか、今だに分かっているのか…、でも、生活が苦しくなるとにゃんにゃんと親を頼り、金は貪るわ、職場を提供させるわ、まー、マゴを人質にとり、やりたい放題した挙句、3.11以後放射線線量を気にして、大阪のダンナの実家に逃げておりました。

ワガママ生活の報酬は婿ウツ。引きこもって何も出来ないダンナを抱えて自立した生活出来なくなったことも移住の理由でした。

 

ドラちゃん(息子)は当時二十歳。中学三年の秋から突然引きこもり、やいのやいの言って入った工業高校にはひと月しか通えず、一学年末に引きこもり専門の高校に転校させ、なんだかんだとなだめすかして卒業してもらったものの社会に出る勇気がなく、調理師学校に潜り込み、調理師免許は取ったが、飲食業界の厳しさについて行けず…、どうするのかと思いきや、ゲームのデバッカーの仕事を拾ってきて、家族の反対を押し切って業界入り。

以来、かなり優秀な戦力として受け入れられているらしい。予想外の展開でした。

ま、フリーターなので、まだまだですが。

ヤツが亡くなった時、仕事を始めてまた三ヶ月しか経っていませんでした。前に高校に通えなくなったきっかけは祖母が亡くなり忌引したことでした。

ですから、また、気力をなくすのでは?と心配したのですが、それは徒労に終わりました。とても良い仲間たちと仕事をしているようです。

ある日、ドラちゃんがしみじみ言いました。

「おかん、ある意味この時期に親父が亡くなって良かったのかも知れないよ。」

 

何をいいだすんや。われは⁈

 

「だって、あのおとんやったら、この先どれだけ頑張ってもあれだけの借金を返せなかったやろ。あと10年生きとったらもっと酷いことになってたかもしれん。そのときにはもう、おかんは年とってとしもうて、どうにもならんかったんとちゃうやろか。」

 

まー、お前のゆーてることは、ほぼ真実やな。

 

と、思わす頷く。

 

「でも、おかん、すごいな。姉貴は駆け落ち婚、おれは引きこもり、おとんは酔っ払ってクルマと喧嘩して逝っちまって、凄い人生だなぁ。」

 

あのなぁー、誰のせいでこんな目にあっとるんやっ!ええ加減にせんかい!

 

…まあ、きっと、天国のヤツも似たようなことを言ってるんでしょ。もう!知らんわ。

私の底抜け脱線人生は今更始まったわけじゃなかった…?

偲ぶ会@横浜

あの秋の日、本葬が終わったあと、帰路につく車中で携帯が鳴りました。

ヤツがこよなく愛した横浜・野毛地区の飲食店の店主さんからでした。この方は以前よりこの地区の街おこしの活動に熱心に取り組んでおられる方で、2009年の博覧会の際には地元市民の取りまとめ役の一人としてご活躍下さいました。

 

ヤツもことあるごとに野毛で呑んだくれ、そういう意味では博覧会のかなりの予算をこの地域にばら撒きましたから、地域の名士と呼ばれる資格はあったでしょう。

 

その博覧会が不調に終わり、後始末に苦労していたとき、ヤツはこの方々に何も言わなかったようです。たしか、仕事を干されて苦しんでいたときに、市民の皆さんに助けを求めなさい、と進言しましたが、とうとう最後まで何も言わずじまいになったようです。

本葬の前にこのFさんから電話を頂いたとき、それが分かりました。

 

どこまで、見栄っ張りだったんだか。

つまり、最後の最後まで、ヤツにとって市民の皆さんは対等ではなかった、ということなのです。あくまでも「お世話すべき人々」だったんですね。

私はヤツの市民参事業のコンセプトは素晴らしい、と思いますが、結局本人は参加することなく上から目線に終わったのだと思います。

 

紺屋の白袴、です。

 

おっと、本題から外れた。

Fさんは言いました。「奥さん、今日のお話に感しました。私たちもタコツボを出て頑張ります!そして、私たちで偲ぶ会を行いますから、是非協力して下さい!」。

 

そういう訳で、横浜でも偲ぶ会が行われることになりました。

今度は広いホールを借りて大きくやる、ということでした。

この会の為にFacebookにコミュニティページが設けられ、幹事さんたちが盛んに意見を交わしておられましたが、しばらく経つと、話がずれて行くのです。

 

誰がスピーチをするか。

 

あー、またこれか、と思いました。

ヤツは総合プロデューサーでした。市長から来場者に至るまで様々な人と関わりがありました。付き合いの長い人短い人、浅い人深い人、社会に影響の強い人弱い人。

誰かが高いところに登壇すれば他の人は話さなくなる。

みんな、言いたいこと感じてきたことがあるはずです。

 

なので、思わす投稿させて頂きました。

 

会は誰かが目立つようなものではなく、フラットなものにして下さい。全員が何か分かち合い、何かを得られるように。

それで、偲ぶ会はワールドカフェ形式で行うワークショップ形式で、ということになりました。

ファシリテーターはヤツの押しかけ弟子のN君。彼は博覧会終了後、独立して自分の組織で活動しています。

 

それで、ハマの放送局の持っているイベントスペースをお借りして、盛大な会が整いました。

集まった人々は総勢70人ばかり。

皆がヤツから受けたものを分かち合う会になりました。万博以来の協力者で環境系ロックシンガーとなった白井貴子さんも来てくれて思い出の曲をみんなで歌いました。

 

何にもいいことのなかったイベントだっだけど、小さくても人は育っていました。

あれから、こんなことを始めました、とか、あのときに得たことが資産になってます、とかそんな話を聞きました。あの博覧会はタネがキーワードの一つになっていましたが、蒔いたタネの中に芽吹いただけでなく、育っていくものがあったことは、ヤツにとっても嬉しいことだったでしょう。

 

皆さんにはこれから先、何年か経って大きく開いた花を見せて下さい、とスピーチさせて頂きました。

 

何回も続いたお葬式もやっとこれで終わりました。

Where Have All The Flowers Gone? とならないように。祈ります。。。

 

偲ぶ会@名古屋

名古屋は、ヤツが多いに活躍させて頂いた街。会社を立ち上げた頃、まず取り組んだ犬山市のイベントを皮切りに2005年のあの博覧会に至るまで、ヤツと苦楽を共にした仲間がたくさんいるはずでした。

当初から、東京での本葬に参列出来なかった名古屋の人々の為に、偲ぶ会を行いたい思っていました。名古屋の仲間のみなさんもそのつもりでいたようです。

当初、あの成功を収めた博覧会の関係者だけでも相当な数になるのでは?と思いきや、思いの外テンションは低い感じがしました。

結果、偲ぶ会は何処か大きな場所を使ったイベントではなく、馴染みの居酒屋でのんべんだらりと飲む会となったのです。

 

あれから7年。その前からずっと付き合ってきた広告代理店は博覧会の後、大手に合併併合して子会社化していて、一線で旗を挙げられる状態では無くなっていました。

当時の仲間たちはあの大きな仕事のあと、後進に第一線を譲り、退職に向けて花火を上げるより、平穏無事であることを選んだようです。

 

名古屋の繁華街にある、山形料理の店。ヤツが名古屋に新幹線通勤していた頃に散々呑んだくれた思い出の店は私には初めてでした。当時は家庭がありましたから、私は必ず日帰りしなければならなかったのです。

 

お店にもヤツの写真と本、本葬のときに流した映像を持ち込みました。30年近い月日を共に働いた様々な人が訪れました。

 

どの仕事も、私の頭にはちゃんと記録されていました。

彼らが思い出話を始めれば、まるでその現場にいたかの如く話を合わせることが出来ます。仕事の内容、そのときの企画のコンセプト、知らないものはないんです。

 

だって、その仕事は私とヤツで作っていたんですから。

あの頃、家庭にちんまり収まっていても、ヤツの対話の相手をしていたのは、私。

ヤツの企画書のチェックをしていたのも、私。

実施の報告を逐一聞いていたのも、私。

 

参加者たちは、みな、驚きました。

そして、私は如何に自分が黒子にされていたかを知りました。

 

表に出したくなかったんだなぁ…。

やはり、嫁さんはお内儀さんでいて欲しかったんだなぁ、と思うのです。

結局、私はヤツを乗り越えて表に出なければならなくなってしまいましたが。

 

彼らとの取引がなかったこともあって、本当のところはわかりませんが、

彼らの過去は活き活きとしていたとしても、今の彼らは静かに時の流れに身を任せているように見えました。

私のできることといえば、彼らの思い出の中に一緒に入って、ヤツの代わりに彼らの時代を語り合うことぐらい。

 

私には静かに流されていくだけの船もなし、金もなし。越えなければならない大きな壁もありましたし、黒子のままで世の中に存在のないまま終わるわけにもいかない、動くしかない、と思っています。

そんな風で、芋煮の鍋を囲みながら、名古屋の夜は静かに流れていくのでした。

 

黒子は卒業。でも、表舞台に出るのは至難の業…。

残務処理

8月下旬には、最後に実施したイベントの仕事の報告書を出さなければなりませんでした。

もっとも、その報告書を作ってヤツに投げて旅に出て、戻ってこれ、でしたから、概ねものは出来ていました。

 

そのクライアントさんに、業務の進行の報告を兼ね、挨拶に行きました。

担当のお二人は神妙な面持ちで、「奥様もさぞ、お力落としで…」仰ったので、

はあ、奥方はここにいますが、とお応えしましたら、

二人の驚いたこと!

 

私たち、夫婦だと思われてなかったらしい。

 

ある意味、愉快でもありました。それだけそれぞれ独立して働いていた、ということですから。

反面、内助の功は見えにくく、私の評価は社会に出ていないとも言えるのですが。

 

9月頭には、名古屋に飛びました。

ヤツが依頼されていたコンサルの仕事を継続してもらえるように、と臨んだのですが、

社長さんはそも女性と話すことががダメな体育会系お年寄りで、結局、そのときに携わっていた案件をまとめたところで切れてしまいました。残念。

 

あっという間に後任が選ばれて、手元から離れていった仕事もありました。

ヤツの代わりはいくらでもいたのかと思うと、少々寂しく思いました。

 

死んだ仕事を葬ることも、また職務、なり。

 

お話。

祭壇にはヤツが愛した書籍の一部を飾りました。哲学・思想系、キリスト教関係から、小説、アート、漫画に至るまで。

家が歪んで窓が開かなくなるほどの蔵書がありましたから、そこから選ぶのも大変。

真ん中には骨になっちまったヤツを置き、

後ろの壁には、ヤツの誕生から最近までの写真、そして密葬のときの写真をスライドショーで映し出しました。

 

礼拝の一部始終はU-streamで中継されました。Y150でお世話になった市民放送局の皆さんが協力して下さいました。

 

お話は、まずヤツの生い立ちと生涯について、そして、ヤツが目指したものについて話しました。

100%ビジネスマンで100%牧師だったヤツ。

一緒に仕事をしていた人々には牧師としてのヤツが、信徒さんたちには仕事をしていたヤツの姿が分かりません。

それを説明し、ヤツを一つにまとめること。これからはヤツを表現できるのは私しかいなくなってしまった。人がいなくなる、ってそういうことなんですね。誰かがその人を語るしか存在がなくなるわけです。

遠くから遥々来てくださった愛する兄弟(キリスト教徒は信徒仲間を兄弟姉妹と呼び合います)

私たちが教会の信徒数の発展を求めて盛んに活動していた頃、共に働いていた信徒仲間たち(その思想は今の教会を建てる時に見事に崩れ去って行きましたが)、ヤツと万博で同労した代理店やスタッフ、出展者たち。

 

ひとつ、思いました。喪主の強みについて。

 

悲しみにくれている人に、私のハグは力がある。かける言葉は癒しになる。へー、そうなんだ。

喪主って、便利だなぁ、などと不謹慎な優越感を感じてしまいました。

 

だから、でしょうか?

とにかく私が笑うこと。私が笑えばみんなが笑える!ということ。

 

これだなぁ、と思いました。

 

私が元気でないと、みんなが元気になれない。悲しみを背負うことで、人を励ますことができる、というのは私にとってむしろ良いことなのではないか、と思うのです。

自分の生き方がひとつ、定まったように思いました。

 

人呼んで、「明るすぎる未亡人」…!?

 

雨。

生前、山奥に満開の桜を撮りに行けば大雪、セミナークルーズの企画を実施すれば台風、万博開会式にも雪が積もる。嵐を呼ぶ男、と呼ばれたヤツ。でも、そういう仕事はみな、大成功する、不思議な男でもありました。

 

例年になく暑い夏でした。記録的何とか、というのを何度聞いたか。いつまで経っても秋の気配が感じられない、そんな夏でした。

 

暑さ寒さも彼岸まで、なんて言うのですが、9月23日は朝から雨。そして、寒かったのです。

 

参列者がどの位になるのか、とかなり身構えておりました。入りきれない人が溢れると困るので敷地内の別のホールも借りようかと考えましたが、申し込まなくて良かった。

酷い雨のせい、ということにしておきましょう。

参列する人はことの他少なく、ホールをちょうど埋める程しか集まりませんでした。

韓国からこの礼拝のためだけに来てくれた古い信徒さんがいました。前に仕えていた教会でお世話させて頂いていた信徒さんたちが集まって、まるで同窓会。前の教会は解散していて、彼らも長い時間の中で散り散りになっていたのでした。

 

仕事で繋がっていた人々で私の名前を知っている人はほんの少し。そう言えば、ヤツの母親が亡くなったときは凄まじい人々が押し寄せ、当時の中田市長から弔電まで貰っていました。

では、当の本人が亡くなったというのに、なぜ人は弔いに来ないか。答えは簡単。喪主である私がずっと黒子であって、関係外の人物だったからです。彼らにとって私の存在は何の価値もなかったのです。

ヤツは私を決して表に出そうとしなかった。特に自分の名前が中心に出るような仕事では。

 

彼等には私は利益をもたらさない人間と映ったのでしょう。

実際この後も、ヤツからもらった人脈で繋がる仕事はほとんどありませんでした。

 

そういうわけで、ホールが人で溢れる、と思ったのはとんだ思い違いでした。

そんな、小さな告別の礼拝を激しい雨は包んでくれました。

 

教会のメンバーの一人が「雨は心を静かにさせるのよ。これは癒しの雨だわ」と言ってくれました。

 

雨に洗い流されて、残ったのは本当の関係?