偲ぶ会@名古屋
名古屋は、ヤツが多いに活躍させて頂いた街。会社を立ち上げた頃、まず取り組んだ犬山市のイベントを皮切りに2005年のあの博覧会に至るまで、ヤツと苦楽を共にした仲間がたくさんいるはずでした。
当初から、東京での本葬に参列出来なかった名古屋の人々の為に、偲ぶ会を行いたい思っていました。名古屋の仲間のみなさんもそのつもりでいたようです。
当初、あの成功を収めた博覧会の関係者だけでも相当な数になるのでは?と思いきや、思いの外テンションは低い感じがしました。
結果、偲ぶ会は何処か大きな場所を使ったイベントではなく、馴染みの居酒屋でのんべんだらりと飲む会となったのです。
あれから7年。その前からずっと付き合ってきた広告代理店は博覧会の後、大手に合併併合して子会社化していて、一線で旗を挙げられる状態では無くなっていました。
当時の仲間たちはあの大きな仕事のあと、後進に第一線を譲り、退職に向けて花火を上げるより、平穏無事であることを選んだようです。
名古屋の繁華街にある、山形料理の店。ヤツが名古屋に新幹線通勤していた頃に散々呑んだくれた思い出の店は私には初めてでした。当時は家庭がありましたから、私は必ず日帰りしなければならなかったのです。
お店にもヤツの写真と本、本葬のときに流した映像を持ち込みました。30年近い月日を共に働いた様々な人が訪れました。
どの仕事も、私の頭にはちゃんと記録されていました。
彼らが思い出話を始めれば、まるでその現場にいたかの如く話を合わせることが出来ます。仕事の内容、そのときの企画のコンセプト、知らないものはないんです。
だって、その仕事は私とヤツで作っていたんですから。
あの頃、家庭にちんまり収まっていても、ヤツの対話の相手をしていたのは、私。
ヤツの企画書のチェックをしていたのも、私。
実施の報告を逐一聞いていたのも、私。
参加者たちは、みな、驚きました。
そして、私は如何に自分が黒子にされていたかを知りました。
表に出したくなかったんだなぁ…。
やはり、嫁さんはお内儀さんでいて欲しかったんだなぁ、と思うのです。
結局、私はヤツを乗り越えて表に出なければならなくなってしまいましたが。
彼らとの取引がなかったこともあって、本当のところはわかりませんが、
彼らの過去は活き活きとしていたとしても、今の彼らは静かに時の流れに身を任せているように見えました。
私のできることといえば、彼らの思い出の中に一緒に入って、ヤツの代わりに彼らの時代を語り合うことぐらい。
私には静かに流されていくだけの船もなし、金もなし。越えなければならない大きな壁もありましたし、黒子のままで世の中に存在のないまま終わるわけにもいかない、動くしかない、と思っています。
そんな風で、芋煮の鍋を囲みながら、名古屋の夜は静かに流れていくのでした。