底抜け脱線人生の歩き方

夫の突然の交通事故死。限定承認、会社の清算、失業、未払い賃金立替闘争、父の死、婿ウツ、etc. 底抜け脱線人生の顛末。

偲ぶ会@横浜

あの秋の日、本葬が終わったあと、帰路につく車中で携帯が鳴りました。

ヤツがこよなく愛した横浜・野毛地区の飲食店の店主さんからでした。この方は以前よりこの地区の街おこしの活動に熱心に取り組んでおられる方で、2009年の博覧会の際には地元市民の取りまとめ役の一人としてご活躍下さいました。

 

ヤツもことあるごとに野毛で呑んだくれ、そういう意味では博覧会のかなりの予算をこの地域にばら撒きましたから、地域の名士と呼ばれる資格はあったでしょう。

 

その博覧会が不調に終わり、後始末に苦労していたとき、ヤツはこの方々に何も言わなかったようです。たしか、仕事を干されて苦しんでいたときに、市民の皆さんに助けを求めなさい、と進言しましたが、とうとう最後まで何も言わずじまいになったようです。

本葬の前にこのFさんから電話を頂いたとき、それが分かりました。

 

どこまで、見栄っ張りだったんだか。

つまり、最後の最後まで、ヤツにとって市民の皆さんは対等ではなかった、ということなのです。あくまでも「お世話すべき人々」だったんですね。

私はヤツの市民参事業のコンセプトは素晴らしい、と思いますが、結局本人は参加することなく上から目線に終わったのだと思います。

 

紺屋の白袴、です。

 

おっと、本題から外れた。

Fさんは言いました。「奥さん、今日のお話に感しました。私たちもタコツボを出て頑張ります!そして、私たちで偲ぶ会を行いますから、是非協力して下さい!」。

 

そういう訳で、横浜でも偲ぶ会が行われることになりました。

今度は広いホールを借りて大きくやる、ということでした。

この会の為にFacebookにコミュニティページが設けられ、幹事さんたちが盛んに意見を交わしておられましたが、しばらく経つと、話がずれて行くのです。

 

誰がスピーチをするか。

 

あー、またこれか、と思いました。

ヤツは総合プロデューサーでした。市長から来場者に至るまで様々な人と関わりがありました。付き合いの長い人短い人、浅い人深い人、社会に影響の強い人弱い人。

誰かが高いところに登壇すれば他の人は話さなくなる。

みんな、言いたいこと感じてきたことがあるはずです。

 

なので、思わす投稿させて頂きました。

 

会は誰かが目立つようなものではなく、フラットなものにして下さい。全員が何か分かち合い、何かを得られるように。

それで、偲ぶ会はワールドカフェ形式で行うワークショップ形式で、ということになりました。

ファシリテーターはヤツの押しかけ弟子のN君。彼は博覧会終了後、独立して自分の組織で活動しています。

 

それで、ハマの放送局の持っているイベントスペースをお借りして、盛大な会が整いました。

集まった人々は総勢70人ばかり。

皆がヤツから受けたものを分かち合う会になりました。万博以来の協力者で環境系ロックシンガーとなった白井貴子さんも来てくれて思い出の曲をみんなで歌いました。

 

何にもいいことのなかったイベントだっだけど、小さくても人は育っていました。

あれから、こんなことを始めました、とか、あのときに得たことが資産になってます、とかそんな話を聞きました。あの博覧会はタネがキーワードの一つになっていましたが、蒔いたタネの中に芽吹いただけでなく、育っていくものがあったことは、ヤツにとっても嬉しいことだったでしょう。

 

皆さんにはこれから先、何年か経って大きく開いた花を見せて下さい、とスピーチさせて頂きました。

 

何回も続いたお葬式もやっとこれで終わりました。

Where Have All The Flowers Gone? とならないように。祈ります。。。