長いお別れ
告別式が終われば、遺体は荼毘にふされます。日本では当たり前のことですが。
私たちには関係ないことだったのですが、その日は友引でした。そう、友引にはお葬式が少ないのです。なので、横浜の火葬場は友引に順繰りに休むのだそうで、通常は近くの火葬場に行くのですが、ヤツが送られるのは海に近い街場の方でした。
葬儀屋の荘ちゃんがかなり無理をしてくれたようで、所謂、霊柩車にはリンカーンだかいう、とにかくでかい外車を手配してくれました。多分、これから先もあんな高級車に乗ることはないでしょう。たとえ死んだとしても。
告別式に参列してくださった方々のほとんどが付き合って下さいました。ただ、埼玉県本庄市からはるばるやって来たヤツのお兄ちゃんは糖尿病が酷く、横浜に来るだけでも大変な様子で、とうとう火葬場には行くことができませんでした。
横浜の街を巡りながら、ヤツが手がけた仕事のことを思いました。2009年に総合プロデューサーとして懸命に働いたあの仕事です。あの失敗で運命はガラリと変わりました。でも、彼があの仕事通して気づいて愛したこの街を通って、彼は進むのです。
火葬場に着いて、炉の前で最後のお別れをして、賛美歌を歌い、見送りました。私はあの棺が収められる有様が大嫌いです。出来たら自分はあそこに入りたくない。あの狭い空間で焼かれて無になっていくイメージが背中にむずむずする感覚を呼ぶのです。
…時間が経てば焼きあがります。はい。
炉に収める前に眼鏡は外しました。集めて壺に収まったヤツにもう一度眼鏡をかけてあげたら、ありがと、って言われたように思いました。そこにヤツがちんまり収まっていました。ね、眼鏡がないとなんにも出来ない人だったもの。
これが長いお別れの始まり。
みんなで帰ってきました。親戚たちはそれぞれ散って、戻って来たのは家族と教会のメンバーたち。みんな帰りたくなかったんです。まだ、一緒にいたかった。悲しくて辛い気持ちを一緒に支え合うことで乗り越えようとしていたのだと思います。
急遽、寿司とピザを用意して、その日は夜遅くまで一緒にいました。